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2008年9月16日 (火)

20世紀少女だなぁ―とシミジミ思った若戸街あるき

プロローグ

私が事務局をやっている「地域プロデューサー講座」でライターの遠藤哲夫さん(以降、エンテツさん)をお迎えして、街あるきをした。「街を五感で体感し、メディア化し、発信する」事をエンテツさんを見習いながら身を持ってやってもらおう!という趣旨である。

今回、街あるきした場所はJR戸畑駅から駅の北側へ向い、若戸渡船に乗って若松の街なかを歩き、また戸畑へ戻ってくる―というルート。実はこのルートと界隈は私の通学・通勤エリアで、少なくとも15年間はお世話になったエリアだ。その後、結婚して住居が変わったので、街とは10年ぶりの街との対面になった。

女だてらにバンカラで有名な小倉工業高校の電子科に入った私は、思春期まっただ中で女とは口をきかないゾ!と決め込んでいる男子と男女なんて一切関係なく人間対人間、丁々発止で付き合える男子の両方にもまれながら高校時代を過ごした。「青春を謳歌」なんてクサイ言葉は嫌だけど、本当にあの頃は毎日が楽しかった。今回の街あるきは、その頃、たぶん25年以上前の思い出と一緒に歩いたのだった。

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第一章 戸畑駅から戸畑渡場

JR戸畑駅から街あるきスタート。JR戸畑駅は洞海湾が近いせいか、いつも寒風吹きすさぶ駅という覚えがあるが、今日はそれ程でもなかった。

以前は駅の高さがもっとずっと低くて、現在のように戸畑駅から見える若戸大橋は壮観に見えなかった。せっかく良い目線に壮観に見えるようになったってのに、駅裏(北側)にはビルが建って眺望が台無しだ。

駅を降りて、いざ戸畑渡し場へGO!戸畑駅下の連絡通路を通り駅裏へ。

昔の戸畑駅は、南側と北側にそれぞれ改札口があって、国鉄(現JR)の定期を持っている友達だけが駅を介して南側と北側を通り抜け近道する事が出来た。

小倉に学校、若松の山奥に自宅があった私は、ひと昔前の不便な交通事情のなか、戸畑駅から直通の若松行きのバスに間に合わなければ、駅前から駅裏へ遠回りして戸畑駅裏から一直線に続く場所にある戸畑渡場の徒歩約10分の道のりをダッシュしなければいけなかった。父の勤めていた会社の社宅は若松の高塔山の中腹ぐらいにあり、片道約1時間30分かけての通学の日々。自宅へは若松渡場からも45分はゆうにかかる道のりだったので、1本逃すと帰宅が大幅に遅れる。しばしば、戸畑駅前から泣く泣くダッシュしながら、持てるハズのない国鉄定期券を持っている同級生がうらやましかった。

遠賀駅から国鉄を利用して通学していたTくんは、とても手先の器用な人だった。当時の定期券は厚紙に印刷されたもので、現在のようにラミネートで覆われたり、その全体が電子化されたものではなかった。Tくんは期限の切れた定期券を細工して、ニセ定期券を作り、親から貰ったン万円という定期券代を懐に入れては悠々と通学していた。見つかったら停学ものだ。誰も怖くてTくんの真似は出来なかったけど、彼の手先の器用さと金銭獲得術がとてもうらやましかった。Tくんは戸畑駅を横断する近道をニセ物定期でやってのけて、「お前、金なかっちゃろーが」と超ド田舎な遠賀弁で自慢げに言われた事を覚えいてる。かれこれ25年以上前の話だ。

戸畑駅裏に出た。戸畑駅から戸畑渡場へ続く道が広く路面整備された以外は、ここの風景は私が通学していた頃とさほど変わっていない。開かれた店先、ちょっとあやしそうで入りづらそうな小料理屋やビジネスホテルなど等。私には、それがとても普通の風景で「まだ、そこにあったね」と安堵したり「懐かしい」以外の何物でもないのだけど、「笑えるー」「かわいー」「おかしー」と歓声をあげながら街あるきする10歳下の女性たちの反応を見ていると、見過ごしてしまいそうな景色もまた違って見えた。

戸畑渡場にたどり着く。昔、ここは「渡船」「電車」「バス」の3つの公共交通機関の発着場が集まる交通の集積地だった。なぜだか知らないけど、渡船のことを「ポンポン船(せん)」と、電車のことを「ちんちん電車」と呼んでいた。

学校で、「ぽんぽん船とちんちん電車を乗り継いで来た」などと小倉っ子に話すと彼らは急に都会面して「お前んち田舎だなぁー」と同じ北九州市に住んでいるのに馬鹿にされた。

極めつけは高校の担任。ある時、バスが大幅に延着してしまい遅刻した。学校では「工業高校の生徒は身体が資本。無遅刻無欠席が第一」と何度も念じられていたのに、だ。始業した教室に恐る恐る入ると若松区一円でしか走っていない市営バスの延着情報なんて教師の耳に届く筈もなく(しかも、若松からの通学は私ともう1人だけだし)、いきなり雷が落ちた。「市営バスが延着したんです…」恐る恐る応戦すると、そんな情報とはお構いなしに「お前ぇ!遅刻するぐらいなら、洞海湾を泳いで来いー!」と怒鳴られた。教室じゅうにドッ!と笑いが広がったことを覚えてる。結局、卒業した際の私の記録は『無遅刻無欠席』だった。

今は西鉄バスの戸畑渡場バス停になっている場所は、ちんちん電車の発着場所だった。今も何となく雰囲気が残っているが、西鉄バスの戸畑渡場旧バス停跡は当時の面影がなく、フェンスに囲まれていた。

若戸大橋の橋脚の真下が旧戸畑渡場バス停で、屋根のないバス停で天候が悪いときのバス待ちは辛かった。洞海湾が真横の寒風にさらされた場所で冬場バス待ちしたおかげで、しもやけが耐えなかった。この橋脚を見ると「しもやけ」と若戸大橋の「歩道」をどうしょうもなく思い出す。橋脚の中にはエレベーターがあり、昔は人と自転車の人はこれを利用してタダで渡れた。貧乏な学生時代、学校から若松の高塔山の中腹の自宅までずーっと徒歩で3時間歩いたこともあった。

そんなこんなを思い出しながら、いよいよ若戸渡船に乗船する。

現在は10分から15分おきに戸畑と若松を1つの船がピストン運行している渡船も、昔は戸畑側と若松側双方に船が停泊していた。昔は利用者が多く、通勤・通学ラッシュの時間には若松渡場でバスを降りるなり、船の改札口へ駆け込んだ。なぜなら、「定員」になると同時に改札の門が閉められ、時刻表と関係なく船が出航するからだ。戸畑駅を利用する八幡高校の友人と一緒に駆け込むのだけど、彼女のほうが少し足が速い。私の目の前で改札の柵が閉じられる事もしばしば。うれしそうに手を振る友人が船に乗り込み、船を見送るハメに何度かあった。そんな光景、今じゃ考えられない。

という訳で、「若戸渡船、定員出航」を出来るだけ文章で再現。

若松渡場に船に乗り込むための乗客が長蛇の列をつくっている。船の準備が整うと改札の大人の腰ぐらいの高さの柵が「カチャーン」と開く。その当時の乗船料は『大人20円、小人10円』。定期券を買っても通学の3ヶ月定期券が何と900円だった。なので、乗船料を現金で払う人が多く、人が前に進む度に「チャリーン、チャリーン」と料金箱にお金が落ちる音がする。改札口のオジさんは野鳥の会みたいにカウンターで人改札を出た人数カウントにカチャカチャと余念がない。

改札のオジさんは手元の人数カウンターを眺めつつ、そろそろ定員になると柵をしめようとする。定員間際になると意味もなく、乗船しようとする人の足が早足になる。滑り込もうと身をよじらせる人たち。オジさんはカウンターをにらみながら非常にも柵を閉める。「カチャーン!」。改札のオジさんは即刻「ジリリリリ…」という発船合図のベルを鳴らし、同時に「定員」とマイクで船乗員のオジさんに伝える。船のほうはというと山手線の列車乗り込み風景よろしい状態。乗客は前後にある入口に駆け込み、船体にギューギューに詰められる。

船の扉は外側から、船乗員によって開閉される。彼らの仕事は船と渡場をロープで接岸させたり・離したりするのが仕事だ。前と後ろの扉が閉められ、施錠されると渡場と船をつないでいたロープがほどかれ、前の扉担当の船乗員が「ピイイっ!」と威勢のよい笛を吹く。ほどなく船は船首を戸畑に向けながら「プッ!」と戸畑側に停泊している船へ、出航したぞの合図をするのだ。

確認と合図、人力のキビキビした動きと様々な音のリズムに見送られながら、私は通勤・通学していたのだとしみじみと思い出した。

第一章終わり。

第二章     若松の街 てんぷら屋のお富編

ご存知の方も多いと思うが、若松は石炭積出港として大きく繁栄した時代があった。若松渡場周辺に残る往時のモダンな建物は、当時の名残り。今日も名残りの遺産で、北九州フィルムコミッションが誘致したTVドラマのロケが行われていた。江口洋介と椎名桔平が来ているんだそうだ。『街あるき』じゃなければ、事務局じゃなければ、出待ちするのに…。不謹慎ですみません。

火野葦平の『花と竜』はその当時の若松を舞台にした物語。後に映画化され、仁侠映画の草分け作品となった。「任侠」と言うと何だか「ヤクザ者」みたいなイメージが先行しがちだけど、若松はその意味どおり、「弱い者を助け強い者をくじき、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。おとこ気。 by大辞林」そんな気性の街だ。流れ者が集っていた街だけに、どんな人でも受け入れる懐の広さと誰の話もきちんと聞く、しかし、気性が荒く、厳しさもある一方で仁義を通す人が多い。と、そう勝手に思っている。

ドップリ若松育ちの私は、中学時代、どんなに手の付けられないヤンキーや少年院に出入りした不良でも「筋をとおす」「弱いものイジメしない」という最低限のモラルを持っていた事を見てきた。そんな彼らに全身で向き合う教師も多く見てきた。ただ、教師も生徒もいささか気性の荒さは否めなかった。

そんな中学時代、とても足の速い同級生がいた。ニックネームはお富。チーターのように長い足とストライドで運動会の人気者。お富と私は背格好、眼鏡姿がそっくりで、たまに後姿を間違えられる事があった。でも、学校一飛びぬけて足の早かった彼女と私との間には雲泥の差があって、コンプレックスさえ感じる事さえあった。

中学時代というと、些細な事でお互いが傷つけあう多感な頃だ。たまに、目立つお富を「やーい、てんぷら屋ぁ~」とからかう男子がいたが、彼女の足の速さの方が下手な中傷に勝った。中学時代の数少ない思い出の中に「てんぷら屋のお富」という言葉とチーターのようにグランドを走る彼女の姿が残った。

ひょんな事で『雲のうえ』で大評判になっている「丸窓」が彼女の実家だった事を知ったのは昨年の事だ。私の父とお富のお祖父さんが同じ病院で入院し、母親同士が病院で再会した事でわかったのだ。

丸窓のてんぷらは、時々むしょうに食べたくなって買いに行く。しかし、店先では主にお富の妹が接客をしていたので気が付いていなかった。それに、丸窓は気前の良さが売りのお店。「『雲のうえ』を見て買いに来ました」「小倉からわざわざ買いに来ました」等と言おうものなら、てんぷらがおまけで2,3枚入る。

ある日、お富が接客してくれた時があったけど、おまけ欲しさに同級生を名乗るのも嫌だし、私など覚えていないだろう、と、一見のお客を装った。

街あるきの最初の目的地は他でもない、この「丸窓のてんぷら」。午後4時近くにたどり着いた私たち一行が見たのは「売り切れ」文字だった。あぁ、ガックリ。その丸窓の店内の奥に、昔のようなほっそりとした姿でせっせと片づけをするお富の姿を見つけた。

彼女が「やーい、てんぷら屋ぁ~」とからかわれ、サラっとかわした日々から約30年が経つ。

近い将来、あのフックラとしたてんぷらづくりに精を出し始めるのだろう、きっと。お富が堂々と「てんぷら丸窓」を引き継ぐ姿が目に浮かんだ。

第二章終わり。

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